上田城は戦国大名・真田昌幸によって築城され、徳川の大軍を2度に渡って撃退した不落の城郭である。江戸時代には上田藩真田氏(九万五千石)のち松平氏(五万三千石)の城下町として栄えた。
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真田氏はもともと信濃の豪族だったが、昌幸の父・幸隆の代に武田信玄に臣従。昌幸は三男であったため、当初他家を継ぎ武藤喜兵衛と名乗っていた。しかし長男信綱・次男昌輝がともに長篠の戦いで戦死。昌幸が真田家を継ぐ。
武田氏滅亡後に昌幸は、織田信長へ臣従をするが、間もなく本能寺の変が勃発。信長亡き後、徳川・北条・上杉の陣営を渡り歩き自立の道を図るが、真田領の沼田城帰属をめぐり徳川家康との関係が悪化。徳川軍が上田城に侵攻する事態が発生する。
その時の戦いが上田城と真田昌幸の名を一躍有名にした「第一次上田合戦(1585年)」である。この戦いで昌幸は2,000人という小勢で上田城に篭城すると、徳川軍をギリギリまで引きつけ、周囲の支城との連携により7,000人もの徳川軍を散々に痛めつけ、撃退に成功する。
真田侮りがたし。真田の強さを痛感した家康は、家臣の本田忠勝の娘を昌幸の長男信幸に嫁がせ、真田を徳川陣営に引き込もうとするが、秀吉は家臣大谷吉継の娘を次男信繁に嫁がせ、真田氏は徳川・豊臣両氏と縁戚関係になる。
それから15年後の慶長5年(1600年)、徳川家康の東軍、石田三成の西軍との天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、昌幸と信繁(幸村)は西軍、信幸は東軍につき、真田家は東西別れて戦うことになる。
昌幸は上杉討伐軍として家康の軍に従軍していた佐野(栃木県)から上田に戻ると、またしても2,000人の兵力で上田城に篭城。家康本隊とは別に東山道を進んでくる3万8,000人もの徳川秀忠軍(家康の息子・後の2代将軍)を迎え撃つ。
この戦いは「第二次上田合戦」と呼ばれ、結局秀忠は上田城を攻略することができなかったばかりか、損害を受け攻略を断念。日数を費やしただけで、本隊の待つ関ヶ原に急行するが、天下分け目の関ヶ原の合戦に遅参するという大失態を演じてしまった。
この時の失態を秀忠は忘れず、家康死後の元和8年(1622年)、昌幸の後、上田城主となっていた信之(信幸から改名)は上田から同じ信州・松代に移封されてしまった。その後、上田城は仙石氏や松平氏が城主となり明治維新を迎える。現在は上田城跡公園として整備され、本丸跡には真田神社がある。
ちなみに徳川軍が大きな合戦で敗北したのは、一向一揆を除き、この第一次・第二次上田合戦および武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いだけである。徳川家康は終生「真田」という名前に恐怖心を抱いていたという。
関ヶ原の戦い後の真田昌幸はというと、本隊の西軍が敗北したため、城を明け渡し、信繁(幸村)とともにとともに紀州九度山に配流。その後は幽閉生活を余儀なくされ、慶長16年(1611年)昌幸は九度山で没する。
数年の後、徳川と豊臣との間に緊張が高まると、信繁(幸村)は豊臣方の要請に応じ、九度山から抜け出し、大坂城(当時の大阪は大坂と呼称)に入城するが、その時、真田が大坂入城したとの知らせを受けた家康は「親か子か?」と家臣に問い合わせ、「子でございまする」との返事に安堵したという。
今でこそ有名を轟かせるが、当時の信繁(幸村)は無名であり、家康は信繁(幸村)の真の恐ろしさを知らず、大坂の陣で手痛い損害を受けることなるとは夢にも思わなかっただろう。実は家康どころか、味方の豊臣方からも信繁の真実力を知っているものは無かったという。
その信繁(幸村)。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、大坂城の弱点といわれる城の南側に真田丸という出城を築き、最前線で正面から徳川軍を迎え撃つ。数に勝り、怒濤の如く押し寄せる徳川方と激戦を繰り広げ、ことごとく撃退。またしても真田の武名を高める奮闘を見せる。
しかし家康の策略により、徳川と豊臣との間に和議が成立。真田丸から真田勢が退却すると破却されてしまうばかりか、内濠と外濠までもが埋めたてられ、大坂城は丸裸同然。翌年には大坂夏の陣が勃発。
すでに籠城のできない大坂城を出て、大坂方は城外で奮戦するが、数に勝る徳川方の優位は動かず、諸将らが相次いで討ち死にする中、信繁(幸村)は自軍を赤備(鎧兜を赤くすること)に整え、茶臼山に陣を敷き、徳川方との最後の決戦に臨む。
その戦いは「天王寺・岡山の戦い」と呼ばれ、戦国最後の戦いとなった大激戦。その戦において真田勢は驚くほどの奮闘を見せ、徳川方の先方を切り崩し、家康の本陣に肉薄すると再三にわたり家康の本陣を蹂躙。
混乱の中、三方ヶ原の戦い以来倒されたことがなかった家康の馬印(大将のいる本陣の印)を倒すばかりか、一時は家康自身をも自害を覚悟させたといわれるほどの奮闘を見せた。
しかし多勢に無勢。最後まで家康を追い詰めることはできず、数で勝る徳川軍に次第に押され、ついには四天王寺で信繁(幸村)は討死。すると豊臣方は総崩れになり、大坂城は落城。翌日、豊臣秀頼(秀吉の遺児)と淀殿(秀頼の母)は自害。豊臣家は滅亡した。
真田信繁(幸村)の戦いぶりは敵である徳川方からも称賛され、後日、薩摩の大名・島津忠恒はその戦いぶりに「真田日本一の兵」と評され、そして徳川家康からも「あの世に行ったら真っ先に酒を酌み交わしたい人物」であると言わしめるほどであった。
そして家康は徳川幕府盤石の体制を築き上げたのを確信したかのように、大坂夏の陣の翌年、駿府城でこの世を去った。あの世で強敵信繁と酒を酌み交わしたことだろう。
(2015.10 更新)
住所 | 長野県上田市二の丸6263番地イ | TEL | 0268-23-5134 [上田市役所 公園緑地課] |
URL | http://www.city.ueda.nagano.jp/hp/sys/ 20091103000001449.html [上田市役所] |
開館時間 | 城内 24時間 [無料] 櫓 8:30~17:00 [200円] |
駐車場 | 駐車場あり [無料] | 定休日 | 城内なし 櫓は冬季(12月~3月)休館 |