温泉新選組 > 二条城
二条城は関ヶ原の戦いの後、1603年に天下を掌握した徳川家康が京都での拠点として築いた城である。幕末、徳川慶喜による大政奉還の舞台となり、江戸幕府の成立から終焉までを見届けた。
権力者にとって京の都は禁断の甘い蜜なのだろうか。織田信長は明智光秀の謀反により、その野望は本能寺の業火の中で潰え、豊臣秀吉は幼い息子秀頼の行く末を案じつつ伏見城で露と落ちた。
現存する二条城以前に、異なる二条城が存在したことをご存じだろうか。それぞれ場所は異なるが、織田信長が足利義昭のために造営した二条城。そして豊臣秀吉が聚楽第の前に構えていた二条第という城である。
そして家康もまた二条城を築いた。
東西約500m南北約400m。将軍が利用する城としては小規模だが、万が一敵の手に奪われた場合、奪還に手間のかかることを避けるために、あえて家康は防御力の低い城を構えたといわれている。
伏見城で将軍宣下を受けた家康は、落成したての二条城での将軍就任の祝賀会。豊臣家を滅ぼそうと決意したといわれる成長した秀頼との対面。大坂冬の陣での家康の本営。家康は京都滞在時には必ず二条城を利用した。
その後、秀忠・家光と三代続けて将軍宣下のために二条城を訪れたが、四代家綱以降訪れることはなく、二条城は歴史の表舞台から去った。
そして220年後、ペリー来航に端を発する風雲告げる幕末がやってくる。
朝廷の影響を排除するために、あえて家康は都とは距離のある江戸に幕府を開いたが、時の大老井伊直弼は、日米友好通商条約締結という政治案件を処理するために、天皇という権威を利用した。
朝廷の権威と幕府・藩を結びつける、いわゆる公武合体により、問題は解決したかに見えたが、朝廷というかつての権威が復活。幕府と倒幕勢力によって、権威の奪い合いが始まった。
当初は幕府側が優勢であったが、一四代将軍徳川家茂は攘夷決行を孝明天皇に奏上(1863)するためと、第二次長州征伐(1865)のために二度上洛したが、犬猿の仲である薩摩藩と長州藩が盟約(1866)を結び、幕府に暗雲が立ち込める。
さらに追い打ちをかけるように、将軍家茂が大坂城で病死。徳川慶喜が二条城にて将軍宣下を受けるが、翌年(1867)大政奉還により将軍職を辞職。ここに260年続いた江戸幕府が事実上終焉したのであった。
江戸幕府の始まりと終わり。二条城は徳川氏の栄枯盛衰を見届けた城であった。信長・秀吉から遅れることおよそ300年。徳川もまた京都の魔力に屈したのかもしれない。
明治維新後、二条城は陸軍省や宮内省、そして京都市の所管になる。昭和14年に正式に京都市に下賜され、元離宮二条城と名称がかわった。
本丸御殿は明治27年に旧桂宮邸の御殿を移築したものであるが、メインの二の丸御殿は幕末の家茂入洛時に改修されたもの。約150年前の江戸書院造の趣きと大政奉還の歴史ロマンをじっくり堪能したい。
当初、天守は存在していたが、火災により焼失。その後は再建されることなく、現存する天守台が往時を偲ばせる。
(2017.7 更新)
住所 | 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 | TEL | 075-841-0096 京都市文化市民局元離宮二条城事務所 |
URL | http://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/nijojo/ [京都元離宮 二条城] | 見学時間 | 8:45~17:00 600円 (16:00までの入城) |
駐車場 | 第一駐車場、第三駐車場 (8:15~18:00) |
定休日 | 12月・1月・7月・8月の毎週火曜(休日の場合翌日)、年末年始(12月26日~1月4日) |