白河小峰城は東北の玄関口「白河」の丘陵に建つ梯郭式平山城。南北朝時代に築城された城を江戸時代初期、築城の名手「丹羽長重」により総石垣造り三重櫓(実質的な天守)を擁する城に大改修された。
明治維新後に始まる戊辰戦争により大半を焼失したが、平成に入り三重櫓と前御門を木造で復元。日本100名城および東北三名城のひとつに数えられる。
総石垣造り三重櫓を擁する梯郭式の平山城。白河小峰城は意外と大きい。広大な二の丸や本丸を歩いていると、失礼ながら、身の丈以上の大城郭に思えるのは気のせいだろうか。
それは気のせいではなく、明白な理由がある。
では、なぜ幕府は堅牢な大城郭の築城を丹羽長重に命じたのか。それは白河の立地そのものに価値があったことに他ならない。
白河は古来より「白河の関」が置かれ、東北への玄関口として要衝の地であることに加え、伊達・南部・佐竹氏等の有力な外様大名の抑えとしての役割を担った。
その為、白河藩は初代丹羽氏(外様)は例外として、以後は親藩・譜代大名が入替りに10~15万石で封じられ、寛政の改革で有名な松平定信も藩主を務めていたのである。
だが、最後の藩主阿部氏が1866年に棚倉に転封。二本松藩預かりの幕府直轄領となっていた時に大政奉還と明治維新という大事件が訪れる。
鳥羽伏見の戦いを発端とする戊辰戦争は、江戸から北関東、そして東北へと舞台を移し、東北の玄関口である白河に迫っていた。
白河城において新政府軍と奥羽越列藩同盟(会津・仙台藩兵中心)との間で激戦(白河口の戦い - 1868年4月20日~5月1日)が繰り広げられたが、新政府軍により落城。三重櫓を始め大半の構造物が焼失した。
この白河城の陥落は新政府軍にとって大きな意味を持つ。奥羽越列藩同盟の盟主である会津・仙台藩への直接侵攻の足掛かりを得ただけではなく、点在する小藩を各個撃破できる体制が整ったのである。
こうして奥羽越列藩同盟は瓦解に向かい、戊辰戦争のクライマックスである北越・会津戦争へと突入していくのである。
北越では長岡藩が善戦していた。一度長岡城は落城(5月19日)するが、河井継之助率いる長岡藩兵が城を奪回(7月25日)、だが同日、新発田藩が降伏すると、再度長岡城(7月29日)は落城。河井継之助は会津へ向かう途中で命を落とし、8月には北越での戦いは終結する。
東北では棚倉藩(6月24日)と三春藩(7月16日)が降伏。さらに白河口に藩兵が出兵している隙を突かれた二本松城が落城(7月29日)する。
会津藩を包囲した新政府軍は、会津藩主力部隊が藩境に出払っている隙を突き、防備の弱い母成峠(8月21日)を一気に抜け、会津盆地に電撃侵攻。若松城下へと殺到する。
老人・子供・女子を含めた残存藩兵は会津若松城に籠城するが、頼みの綱である米沢藩(9月4日)と仙台藩(9月10日)が相次いで降伏。孤立無援の会津藩も一ヶ月の籠城の末、ついに降伏開城(9月22日)した。
会津藩の降伏を受け、盛岡藩(9月22日)と庄内藩(9月24日)も新政府軍に降伏し、ようやく東北での戦いが終結した。
だが、戊辰戦争はまだ終わらない。残存の旧幕府軍は仙台港から榎本武揚率いる脱走艦隊と合流、函館に上陸すると、五稜郭を占拠。
旧新選組の土方歳三が松前城を落とし蝦夷を平定すると、榎本武揚は函館政権樹立を宣言し、新政府軍に対抗するが多勢に無勢。
兵力を再編した新政府軍は、翌明治2年4月9日に函館に近い乙部に上陸。兵力で勝る新政府軍は函館に進軍、五稜郭を包囲すると旧幕府軍は降伏。戊辰戦争が終結したのは、白河城陥落から1年後の5月18日であった。
話を白河城に戻すが、明治6年の廃城令では存城とされ、曲輪・土塁・石垣・堀等は残され、平成3年(1991)に三重櫓、平成6年(1994)に前御門が当時の図面(白河城櫓建絵図)により木造で忠実に復元。往時の威容を実際に見ることができる。
現在は白河市のシンボルとして無料で一般開放。会津若松城と盛岡城とともに東北三名城に数えられ、平成18年(2006)に日本100名城のひとつに選定。平成22年(2010)に国指定史跡に指定された。
東日本大震災で石垣が崩れる等の被害を受けたが、平成27年(2015)開放を再開。三重櫓を始め無料で見学できる。
(2017.6 更新)
住所 | 福島県白河市郭内1 | TEL | 0248-22-1147 (白河観光物産協会) |
URL | http://shirakawa315.com/ sightseeing/komine.html [白河観光物産協会] |
見学時間 | 三重櫓 10時~17時(4~10月) 10時~16時(11月~3月) |
駐車場 | 無料駐車場あり | 定休日 | 年末年始 (12/29~1/3) |