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会津若松市には「白虎隊」で有名な若松城(鶴ヶ城)がある。江戸時代初期に保科正之が会津藩二十三万石として封じられ、以降、会津地方の中心としてだけではなく、東北諸藩を監視する役目も担った。
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若松城はかつて黒川城と呼ばれ、室町時代に蘆名氏が築城。その後、蘆名氏・伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝・加藤嘉明などの名だたる大名を経て、徳川家康の孫である保科正之が1643年(寛永20年)に入城する。
会津藩は表高二十三万石ながら、南山御蔵入領五万石も預かり地として実質二十八万石、さらに内高(実際の石高)は四十万石を越え、財政基盤も強固であったという。(それでも後に財政危機があったが…)
幕末、会津藩は傾きかけた江戸幕府を最後まで支え続け、藩主松平容保は京都の治安を司る「京都守護職」として、幕府はもとより、孝明天皇(明治天皇の父)からも厚く信頼され、天皇からご宸翰(感謝の書簡)が下賜されたほどであったという。
しかし孝明天皇が崩御、明治天皇が即位すると、薩摩・長州・土佐・肥前を中心とする倒幕勢力と倒派公卿により、会津藩は朝廷より遠ざけられ、「大政奉還」「王政復古の大号令」により、ついに幕府は崩壊。
時流は倒幕から徳川討伐へと流れ、ついに武力衝突が勃発。戊辰戦争が始まる。緒戦の「鳥羽伏見の戦い」では、朝敵(天皇の敵)という汚名を恐れ、多くの親藩(徳川の親族)・譜代(関ヶ原以前からの徳川家の家臣)大名が新政府軍に降伏や追従するが、会津藩は幕府軍の中核として、新政府軍と対抗する道を選ぶ。
何故、会津藩はそれほどまでに新政府軍に抵抗したのか。それは親藩(徳川の親族)としての立場だけではなく、藩祖保科正之が定めた「会津家訓十五箇条」という鉄の家訓があったことが大きい。
その第一条は「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」というもの。もし藩主が幕府(将軍)に背いたら、藩士は藩主の命令に従わず、幕府(将軍)の命令に従えという、幕府に忠誠を誓うというよりも、一蓮托生を誓うものであった。
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しかし「鳥羽伏見の戦い」の後、将軍慶喜は新政府に恭順の意を示し、大坂城から船で江戸へ帰還し謹慎。その後、勝海舟と西郷隆盛の会見によって江戸城は無血開城される。
ここにいたり、会津藩も新政府に恭順の意を示すが、長州藩の反対(禁門の変で会津藩を憎んでいた)により拒否され、会津戦争(新政府軍による会津討伐)に突入。
会津藩は東北諸藩が結成した奥羽越列藩同盟とともに新政府軍に対抗するが、最新型の銃など新装備の新政府軍に対して旧装備の列藩同盟は苦戦。白河城・二本松城に次々と陥落し、ついに会津藩そのものが新政府軍に包囲される。
会津藩は藩兵の主力を藩境の主要街道に展開していたが、土佐の板垣退助率いる新政府軍は、会津盆地に抜ける峠の中で、最も険しいが防備の手薄な母成峠に進攻。会津藩は主力部隊の不在もあり、電撃的に突破され、一気に若松城下に攻め込まれてしまった。
この時起こった白虎隊の悲劇(城の付近にある飯盛山に逃れた隊士が、城下町で発生した煙を落城の煙と勘違いして全員が自刃、一人を除き全員が戦死する)が会津戦争の悲哀を今に伝える。
藩士および多くの非戦闘員も抗戦のため若松城(鶴ヶ城)に篭城するが、新政府軍は城を完全包囲。藩境から戻った主力部隊も会津城下で激しく抵抗し、城内への侵入は撃退するが、会津側の砲弾が届かない小田山から大量のアームストロング砲(当時の最新式大砲)の遠距離砲撃を浴び続けた。
米沢藩や庄内藩への援軍要請も不調に終わり、まさに孤立無援。一ヶ月間篭城したが、米沢藩が恭順すると、ついに会津藩も降伏を決意。ここに会津戦争が終結する。
ちなみに城は強襲で落城したのではなく、降伏開城である。若松城は堅固な城郭であったのに加え、米の収穫時期だったため、城内には多くの兵糧があった。そのため新政府軍は最後まで強襲によって攻め落とすことはできなかったといわれる。
その後の会津藩であるが、二十三万石から二十万石を減封され、斗南藩三万石として辛うじて存続が許される。だが移封先は極寒の下北半島(青森県)。当時、稲作に適さない不毛の地であったため、藩士は困窮を極めたという。
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その後、城は長く放置されていたが、明治7年に天守が取り壊された。現在ある天守閣は昭和40年に再建された復元天守である。滝廉太郎の名曲「荒城の月」の作詞をした土井晩翠は、鶴ヶ城と仙台城をモデルに詩を構想したとされ、城内にはそれを記念して「荒城の月碑」がある。
徳川を武力でもって叩き潰し、新しい政府を作ろうとした薩摩・長州からすれば、徳川を最後まで擁護した会津藩をそのまま残すことは難しく(特に長州藩の恨みが強かった)、官軍(天皇の軍)からいつの間にか賊軍(天皇の敵)とされた会津藩の悲劇を考えると、同情の念が湧きおこる。
戊辰戦争を通して、会津藩ほど過酷な仕打ちを受けた藩はない。戦死者の埋葬も許可されなかったり、政治家への登用差別を受けるなど、新政府からあからさまな嫌がらせを受けたという。そのため近年に至るまで、会津の人々の中には長州(山口県)への恨みが残る人もいるという。
東京出身の私としては、心情的に佐幕寄り。どうしても会津に同情的になってしまう。だが長州・薩摩・土佐そして会津も、「日本」という国を憂いた上での行動であることに何ら変わりない。
封建国家から近代国家へ「日本」が脱皮をするための尊い犠牲(できれば避けるべきだったが)であった…と強く思いたい。
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天守はコンクリートながら特徴的な天守外観は往事の若松城そのもの。さらに平成23年には幕末当時の赤瓦に交換され、城好きなら萌えること必至。
そして念願かなって、2015年12月に再訪。三の丸にある駐車場から二の丸・本丸と歩いたが、そのスケールの大きさを改めて感じる。10年ぶりに見る鶴ヶ城の天守は相変わらず美しく、屋根瓦を赤瓦に変更したため、より優雅になった印象。
前回は見学しなかった南走長屋と干飯櫓も見学。使われる木材がまだ新しく、江戸時代を思い浮かべるのにはちょっと違和感があるが、往時の鶴ヶ城の雰囲気を感じさせる。
天守は復元だが、天守台の石垣は当時のまま。気温が一定していることから塩蔵(塩や保存食の保管庫)として利用され、その様子が再現されている。それを見ると、やはり木造で復元して欲しいと思うが…ちょっとムリかな…
本丸御殿をはじめ、当時の建造物は残っていないが、茶室「麟閣」のみが昔の面影を残しているという。しかし、あろうことか見学漏れ…ま、また来んとあかんわ!
(2015.12 更新)
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