(躑躅ヶ崎館跡)
山梨は旧国名では甲斐と呼ばれていた。甲斐といえば武田信玄。おのずと知れた越後の上杉謙信と並び戦国最強といわれた戦国大名である。その信玄の居館だった場所が現在の武田神社(躑躅ヶ崎館跡)である。
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躑躅ヶ崎館はもともと信玄の父・信虎が築いた居館である。信玄は「人は城、人は石垣」と評し府中(今の甲府)には大規模な城郭整備はしていなかった。とはいうものの、躑躅ヶ崎館は堀をめぐらし石垣や土塀に囲まれ、実際には城郭に近い館であった。
戦国最強といわれた武田軍に対して、織田信長さえも戦いを避けていたが、信玄が没するとその姿勢に変化が生じる。信玄の没後3年、後を継いだ武田勝頼は、織田徳川連合軍に決戦を挑み、長篠の戦で大敗北を喫する。
その戦いで武田軍は、城と石垣と評した多くの家臣(武田二十四将の山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱、真田昌輝など重臣を含む)を失くしたが、犠牲者の大半が足軽であった織田・徳川連合軍とは雲泥の差であったといえる。
その後、織田氏の勢力伸張を恐れる武田勝頼は、防備に有利な新府城を築き、躑躅ヶ崎館から移転をするが、新府城建設のためにかけた重税のため、家臣と領民にまで見放されてしまった。
長篠の戦から7年後の天正10年(1582年)3月、人という城・石垣を失った武田勝頼は、家臣の裏切りに端を発した織田信忠(信長の嫡男)の率いる大軍の侵入を受けるが、勝頼は未完成の新府城では迎撃は困難とみるや、城を捨て甲府から大月方面に逃亡する。
しかし、またもや家臣の裏切りにあい、天目山で包囲され、嫡男信勝と共に自刃。ついに戦国大名としての武田氏は滅亡する。それは信長が明智光秀の謀反によって没する「本能寺の変」のたった三ヶ月前のことであった。
戦国大名といえば、強烈なリーダーシップを発揮できるイメージがあるが、全ての大名が織田信長のように専制的であったわけではない。守護大名から戦国大名に変わった武田氏は家臣団による合議制で成り立ち、武田信玄でさえも専制的なことはできなかったという。
だが、ただ唯一の例外があった。それが「御旗・楯無も御照覧あれ」のひとこと。「御旗」とは、かつて源義家が使用した源氏の白旗であり、「楯無」とは、武田氏の祖であり義家の弟である源義光(新羅三郎義光)の鎧。つまり武田家の家宝のことである。
神聖なる家宝もご覧くださいということは、まさに鶴の一声。武田家では君主がこの言葉を発すれば、反対意見があっても議論はここで終わりということを意味していたという。
長篠の戦いでは、武田勝頼は織田・徳川連合軍との決戦に反対する重臣たちの意見を「御旗・楯無も御照覧あれ」で封じ、無謀な決戦を行ってしまった。
武田勝頼が暗愚だったということではない。武勇では信玄を越えていたともされ、偉大すぎる父を超えようとして自ら墓穴を掘ったに過ぎない。無理をした結果、多くの大切な譜代忠臣を失い、家臣団に綻びを作ってしまったのである。
武田氏の盛衰を見ると、「組織にとって人が一番の財産であり、戦国時代も現代も同じである」ということを痛感せざるにはいられない。現在は館跡には武田神社が建立され、武田三代の夢の跡を偲ぶことができる。
またいつか武田神社を訪れよう。御旗・楯無も御照覧あれ!
(2015.11 更新)
住所 | 山梨県甲府市古府中町2611 | TEL | 055-252-2609 |
URL | http://www.takedajinja.or.jp/ | 開館時間 | 宝物殿 9:30~16:30 [300円] |
駐車場 | あり [9:00~16:00] | 定休日 |