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上田城
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- 【 東虎口櫓門 】 【 東虎口櫓門と北櫓 】 【 真田石 】 【 西櫓 】 【 真田神社 】
徳川の大軍を2度も撃退
- 温泉とは関係はないが・・・別所温泉のある上田市は江戸時代、上田藩(真田・仙石・松平氏)の城下町だった。上田城は戦国大名・真田昌幸によって築城され、徳川の大軍を2度に渡って撃退した不落の城郭である。
- 真田氏はもともと信濃の豪族だったが、昌幸の父・幸隆の代に武田信玄に臣従。昌幸は三男であったため、他家を継いで武藤喜兵衛と名乗っていた。しかし長男信綱・次男昌輝ともに長篠の戦いで戦死。昌幸が真田家を継ぐ。
- 武田氏滅亡後は、織田信長へ臣従をするが、間もなく本能寺の変が勃発。信長亡き後は、徳川・北条・上杉の陣営を渡り歩き自立の道を図る。しかし真田領の沼田城帰属をめぐり徳川家康との関係が悪化。徳川軍が上田城に侵攻する。
- その時の戦いが上田城の名前を一躍有名にした第一次上田合戦(1585年)である。この戦いで昌幸は2,000人という少数で上田城に篭城。徳川軍をギリギリまで引きつけ、周囲の支城との連携作戦によって7,000人もの徳川軍を散々に痛めつけ、撃退に成功する。
- それから15年後の慶長5年(1600年)、徳川家康の東軍、石田三成の西軍との天下分け目の関ヶ原の戦いが起ると、昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍、長男・信幸は東軍にと真田家は別れて戦うことになる。
- 昌幸は上杉討伐軍として家康の軍に従軍していた佐野(栃木県)から上田に戻り、またしても2,000人の兵力で上田城に篭城。家康本隊とは別に東山道を進んでくる3万8,000人もの徳川秀忠軍(家康の息子・後の2代将軍)を迎え撃つ。
- この戦いは第二次上田合戦と呼ばれ、この戦いでは秀忠は上田城を攻略することができなかったばかりか、大損害を受ける。結局日数を費やした挙句、上田城の攻略を諦め関ヶ原に急行するが、関ヶ原の合戦に遅延するという大失態を演じてしまった。
- この時の失態を秀忠は忘れず、家康死後の元和8年(1622年)に真田信之(信幸から改名)は上田から同じ信州・松代に移封される。後に仙石氏や松平氏が城主となり明治維新を迎えた。現在は上田城跡公園として整備され、本丸跡には真田神社がある。
- ちなみに徳川軍が大きな合戦で敗北したのは、この第一次・第二次上田合戦および武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いだけ。同じ武田系の軍勢に対して敗北している
真田日本一の兵
- その後の昌幸であるが、関ヶ原の戦いで西軍が敗北したため信繁(幸村)とともにとともに九度山に配流。慶長16年(1611年)昌幸は当地で没する。その後、徳川と豊臣との間に緊張が高まると、信繁(幸村)は配流先の九度山から抜け出して大坂城(当時は大坂と呼称)に入城する。
- 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、弱点である城の南側に真田丸という出城を敵軍の正面に築く。そして徳川方相手に真田の武名をまたしても高める奮闘を見せ、徳川方を真田丸にて撃退するも徳川と豊臣との間に講和が成立し、真田勢は退却する。しかし家康の謀略によって内濠と外堀を埋められ、翌年には大坂夏の陣が勃発。自軍を赤備(鎧兜を赤くすること)に整え、徳川方との最後の決戦に臨む。
- その合戦において真田信繁は徳川方の先方を切り崩し、家康の本陣に肉薄。そして家康の本陣に突撃を繰り返し、混乱の中、三方ヶ原の戦い以来倒されたことがない家康の馬印(大将のいる本陣の印)を倒すばかりか、一時は家康自身をも自害を覚悟させたほどの奮闘を見せる。
- しかし多勢に無勢。家康を追い詰めることはできず、数で勝る徳川軍に次第に押され、ついには四天王寺で信繁(幸村)は討死。豊臣方は総崩れになり、翌日大坂城は落城。豊臣秀頼(秀吉の遺児)と淀殿(秀頼の母)は自害し豊臣家は滅亡する。
- 真田信繁(幸村)の戦いぶりは敵である徳川方からも称賛されるほどで、後日、薩摩の大名・島津忠恒からは「真田日本一の兵」と評されている。

別所温泉
上田・別所温泉
上田・別所温泉
上田・別所温泉

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