温泉とは関係はないが…知床半島や野付半島周辺からは、北方領土の一島である国後(くなしり)島を20~30kmの間近で望むことができる。できるだけ近接したいと考え、野付半島ネイチャーセンターへ行ってみると、どんよりとした鉛色の海の向こうに国後島を望むことができた。
※ 下記 マークをクリックで、画像テキストを表示
国後島との中間にあるオホーツク海の海上には、ロシアとの目に見えない実質的な国境が存在する。東京では決して感じることのできない国境の町という厳しい現実を感じさせられる。
ご存知の通り、北方領土を含む千島列島は、昭和20年8月15日の終戦以降に旧ソ連(現在のロシアなど)が侵攻し占領。現在に至るまで実効支配を続けている。日本の立場からすると終戦後に不法占領した日本固有の領土であり、領有権を主張している。
日本が主張する「固有の領土」の根拠は、1875年にロシアと締結された「千島・樺太交換条約」に基づいている。どのような条約かというと、締結前に千島については択捉島と得撫島の間に国境があった(1855年の日露和親条約で国境の策定)が、樺太(サハリン)については国境が決まっていなかった。そこで、樺太をロシア領とする代わりに千島は全島日本領とすることが定められた条約なのである。
つまり、日本としては「千島・樺太交換条約」以前にすでに日本領であった南千島(択捉・国後・色丹・歯舞)の領有権を主張しているのであり、北千島を放棄(得撫島以北、占守島まで)、いわば譲歩している状態なのである。
日本では太平洋戦争の終結を一般的にはポツダム宣言の受諾通告をした昭和20年(1945)8月15日と認識されている。しかし東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本が降伏文書に調印したのが昭和20年9月2日であり、8月15日の段階では厳密にいえば戦争は終結していない。
ソ連軍による千島侵攻は択捉・国後・色丹が8月28日~9月1日。歯舞群島へは9月3日~9月5日。実はソ連の千島侵攻は当時のアメリカ大統領であるトルーマンとの合意が取れていた上での行動であり、千島侵攻に対してアメリカが黙認していたという。
そして昭和26年(1951)のサンフランシスコ講和条約で、一度は日本は千島列島の放棄を表明している。(1956年になって変更しているが…)
ソ連(ロシア)側の主張(南千島はロシア領)の根拠も上記によるものだが、そもそも降伏文書調印前とはいえ、すでに降伏を表明している相手に対して攻撃をかけている。時系列でみても、歯舞群島への侵攻は降伏文書調印後の9月3日であり、明らかに終戦後の占領である。こればドサクサ紛れの「火事場泥棒」としか思えない。
実はソ連はサンフランシスコ講和条約を締結していない。いわば一度は日本が表明した千島列島の放棄も日ソ(露)間では無効なのである。日ソ共同宣言によって日本とソ連(ロシア)との国交が回復し関係も正常化したが、未だ平和条約を結ばれていない。厳密にいえば、国際法上では日本とロシアの間では戦争は終わっていないのである。
先ほど「火事場泥棒」と表現したが、実はこのような行為を日露戦争時に日本がロシアに対して行っていたことを知る人は多くない。
話は今から100年以上前に遡る。日露戦争終結のための日露講和会議(ポーツマス条約)が明治38年(1905)8月10日から始まったが、日本はその1ヶ月前の7月7日に南樺太(現在のサハリン)に侵攻。7月31日に樺太全島を占領している。
結果としてロシアがポーツマツ条約により南樺太を日本へ割譲(領土を譲り渡す)する要因が日本軍による「樺太侵攻」だったのである。
自国のワガママで軍事力を背景に他の国家に侵略する「帝国主義」の時代であったことがそもそもの不幸であったとはいえ、一番の被害者は当時千島や樺太(サハリン)に住んでいた人々であることにかわりない。
日本が過去(日露戦争)に行った行為を40年後に当事国(正確にはロシアとソ連は別国家だが)に同じ仕打ちを受けることは何という皮肉であろうか。
現在の世界を見渡しても領土問題というのは必ずナショナリズムを巻き起こし、紛争の原因となる極めて解決の難しい問題のひとつである。
ひとつの椅子を奪い合う椅子取りゲームのようなもので、双方が完全に納得できる解決策は無いに等しい…そんなことを国後島を見ながら実感した。
(2015.6 更新)
住所 | 北海道野付郡別海町野付 | TEL | |
URL | 利用時間 | ||
駐車場 | 定休日 |